東ゆう!!!
お前そんな笑顔ができる奴だったのかよ!!!
引用元:公式X
チッ
ども、サウナ探偵です。
見た。トラペジってきたわ。
東ゆう、お前が優勝だ。
これ、なかなかよく作られた映画っすね。原作を壊さずに印象だけすり替えてるところがすごい。それでいて原作の行間に隠された日常が補完されるという味付けがなされている。
いやまあ隠されたっつうかそこまで書いてなかっただけかもしんねえけど。
東ゆうという女が広がったのは間違いない。
言うなれば原作からアクを抜いて味の素かけまくったみたいなアレンジですね。
うまい!!うまい!!これに比べると山岡さんの鮎はカスや
キーワードは『視点人物』
原作との構造の違いに着目しましょう。
原作は東ゆうの一人称視点で話が進む。つまり語り手が東ゆう。情景描写はもちろん、他者がどう感じてどう行動しているかも東ゆうの主観。
東ゆう自身の行動の論理、計画性だけは完全情報として述べられる。東ゆうがとれほど腹黒で他人を駒として扱ってるかが決定的に叙述される。
いやまあもちろん東ゆう不在のシーンは別の視点人物になるんだが。
一方、映画は第三者目線、いわゆる神の視点で進行する。カメラが注目するのは東ゆうだが、その情報の重みは平準化される。要するに、東西南北の各々の振る舞いは、視聴者自身の印象に依存する。
原作小説では東ゆうだけは完全情報だったが映画ではここが違う。この構造によって東ゆうの腹黒さが覆い隠され、マイルドになっている。
原作既読の人は東ゆうを冷血腹黒マシーンと思っているが、原作未読の人は東ゆうを打算的だけど詰めが甘くて、夢を強く追うあまり人の心の機敏に鈍感な無邪気少女、と認識することになる。
なぜこうなったのか考える。
腹黒すぎるから
これが答えである。
まず一つ言えるのは、映画が東ゆうの一人称視点で進行したらみんな東ゆうを嫌いになるということである。
この女は内面が腐り切ってて、映像込みでモノローグを語らせようものならクズオブクズになってしまう。
誰も共感などしない。
第三者目線で描くことにより、側から見ると東ゆうは周りが見えず突っ走りがちな夢追い少女になる。憎めない。応援したい。そういう少女。
違う。東ゆうは人間を完全に記号として扱い、自分のひいたレールから外れることを許さないサイコマシーンだ。
そして内面を語らせなくても外に出てきてしまう腹黒さは絶妙にカットされている。
ボランティア爺さんの連絡先を容赦なく消すシーンとか、大河くるみの無事よりも撮影を心配するシーンとか。
「はぁ、ダル…」みたいな無責任さと性格の悪さが映画からは出てきてない。
改変というよりは、積極的に映さないといったところですか。これ制作陣も相当腹黒っすよ。
ほんでこれが視聴者にバレるわけにはいかない。
なぜならば東西南北(仮)の崩壊シークエンスを印象的にするためだ。
急にエグいやん
決定的なのは亀井美嘉の彼氏発覚シーン。
原作ではいろいろ思い通りにいかないなかの一つで「チッまたかよ」みたいな感じ。映画では急にクッソ性格悪いのが顕になり視聴者的にダメージのデカいシーンになってる。
ここで注目したいのが言葉選びで、小説では「最悪…」という状況に対しての不満を口にするだけなんだが、映画では「最ッ底」と美嘉個人に向けて吐き捨てるところがサイコー。
映像があるとこのシーンも南さんとかくるみの反応があって良い。原作だとねえから。そういうとこも空虚なんだよな。多分東ゆうの眼中にねえからなんだろうけど。
あと舌打ちとかは映像ならではの嫌味があるよね。あれ最高だったよね。
その後も「下手ってわかってるなら練習しなよ?」とかくるみの精神崩壊シーンとか、かなりあっさりなんすよ、原作。もう急転直下よ。ついてけねえの。
それを色々絵で語ってくれたり演出でソワソワさせてくれたりするのが良かったすね。
積極的に見せないだけ
とまあ原作が東ゆうの一人称視点であるせいで省かれてる、または眼中にないというシーンがたくさんあって、だいぶ印象が変わるんすね。本作は。
東ゆうの内面は積極的には見せず、小説になかった東ゆうの視界の外は積極的に描く、と。
かなり印象は違うんだけど、意外にも明確な改変があったのは亀井美嘉の初登場シークエンスくらいかな。
映画では偶然憧れの東ちゃんに出会ったってことになってたけど、原作の亀井美嘉はそもそも大河くるみのファンである。駅で大河くるみを待ち伏せしてたら東ゆうと共に現れて、本屋で視界に入るように振る舞ったという打算である。
あとは大河くるみが東ゆうのアイドル計画に気付いてたって話。原作にも大河くるみが気付いてたってくだりはあるんだが特に重要な意味は持ってない。
映画でほとんど共犯者の域になっているのは、脚本の腕やと思う。原作に嘘はつかずに良いように利用したって感じ。
味の素をぶっかけてるってのはこういう部分のことを言ってる。
見たかったところをやってくれた
あとはまあ尺っすね。
原作は死ぬほどどうでもいいボランティアの話に大半のページを割いてて、もう本終わりそうなんだがってところでやっとアイドルになった。その後のいざこざはかなり読者が置き去りにされた。
正直言ってこのあたりはかなり厳しいと思ったね、俺は。
映画はちょうど半分くらいでアイドルになってたかな。見たいのはさ、そのアイドルになってからのすれ違いとか目指す場所の違いとかじゃないですか。
はじめはみんなでキラキラした世界に飛び込んで、最初は戸惑ってたメンバーもだんだん馴染んできて、忙しくなってくるにつれて綻びが出始めて、そういうのが見たかったんすわ!!!!
マルチリンガルのジジイがスペイン語で観光案内するところじゃなくてさぁ!!!
そ”ん”な”の”お”か”し”い”よ”!!!
なのでよかったです。
どっちも履修してください
映画だけ見て東ゆうに脳を焼かれてる人、原作を読んで東ゆうの腹黒さを感じてください。
原作を読んで東ゆうクズすぎるし構成がカスすぎるって思ってる人、映画で東ゆうの表情を見てください。
トラペジウム、この作品はどっちかだけ通っても完成しない。
どちらも補完し合ってる。と、いうか、差集合の部分がだいぶデカい。排他的論理和のところね。
この描き方の妙みたいな部分をおいしく啜ることのできる作品です。
まあそのな、「利用されていたとしてもそれが崩壊したとしても私たちはそれだけじゃなかった」みたいな美しさの部分は東ゆうに狂ったオタクの人たちが散々Twitterで言ってるから俺は言わなくてもいいや。
とにかくこの排他的論理和にやられました。俺は。
おわり。